札幌ダンスセラピー研究会 2002



  ダンスセラピーについて  

  8.スポーツとダンスの間…  

スポーツにしてもダンスにしても体を動かすことには変わりがない…。だから「同じ」…ということにはならないのですが、同じようなものだ…と思いがちなので、両者の違いについてきちんと考えておきたいと思います。
その前に、スポーツにしてもダンスにしてもその種類や内容は様々なので、それぞれ例外的に変わったものを持ち出してきてアレコレ言っても始まりません。ここでは常識的な範囲で考えていくことにします。

さて。
「スポーツは…目的遂行主義的」だと思います。そして、個人や団体で戦う競技として「勝つこと」が目的です。その目的のために鍛錬をして練習をして試合をして…ということがスポーツの基本的な部分だといえます。
漢字で書けば、前者は「競技性」、後者は「勝敗」ということになるでしょう。

もちろん、楽しむことを主なねらいにして、戦うこと・勝つことは二の次・三の次にすることもあります。親睦草野球とか支店対決ソフトボール・バレーボール…等では、勝たなくとも良いわけですが、それでもそこに「勝つ」ということがあるので、熱くなり燃える訳です。
それに対して、「ダンスは動く身体を感じ、動きを楽しみ味わう」ものと言えるでしょう。そこには、さしあたり「勝つこと」や「戦うこと」は入ってません。

すると、昨今過熱している「札幌ヨサコイ・ソーラン」は?!ダンスではない?!
このあたりは微妙なところですが、私は「踊りということを使ったスポーツ」だと思っています。同様なものに、「競技ダンス・競技舞踏」が挙げられるでしょう。元々は「社交ダンス」つまり、人と人との関わりという意味での「社交 social」なダンスだったものが、そのスポーツ性・競技性に焦点を当てて自ら「スポーツ」として位置づけています。
もう少し言い過ぎてしまいましょう。私は個人的に、バレーやモダンダンスやジャズダンスやブレークダンスなども、かなりの程度に「スポーツ化したダンス」だと考えています。つまり、「競技性」や「コンテスト」「勝敗」という概念が深く関わった程度に「スポーツ」であり、それらが薄くなった程度に「ダンス」だと考えます。したがって、バレーやモダンダンスや何とかダンスとは、それ自体がちょうどスポーツとダンスの両方の要素をもったもの…だと考えます。

だからそれが悪いとか良いとか…というようなことではありません。スポーツとダンスとは連続線上にあるものだということに過ぎません。さて、それでは、スポーツ的な要素がない最もダンス的な「ダンス」とはどんなものでしょうか?

それはズバリ↓。
何だか楽しそうに子供が無邪気に跳ね回っていたりするとき、私はダンスの原点を見た思いになります。競技性も勝敗も関係ありません。ただひたすら楽しく跳んだりはねたり動き回ること自体に意味があるとき、それが「ダンス」あるいは「踊ること」の本質なのだと思うのです。

「勝敗」には勝ち負けをつけるための他者が必要です。また、技術や速度や美しさなどのレベルを競う「競技性」は、それを比較するために他者を必要としたり、あるいは「以前の自分よりは上手になった」と、かつての自分を比較の対象として必要とします。
どうしても「目的」という言葉を使わないといけないときには、「ダンスとは動くことそのものを自己目的とするものである」と堅い言い方をするしかなありません。

以下は、個人的な趣味ですが…。
「パース,チャールズ・サンダーズ:Peirce, Charles Sanders (1839-1914)」が彼のプラグマティシズム哲学の中で挙げている三つのカテゴリーについて、こんな風に紹介することがあります。

「第一次性 firstness:主客未分化のうちに何かを感じている・夢うつつの感じ…」
「第二次性 secondness:あるものと他者との関係・作用と反作用・限定されること」
「第三次性 thirdness:二者を統合する第三者のあり方・過程・法則・記号など」

ということから、主客未分の中での有様という意味での「第一次性 firstness」ということが「踊る」ということかもしれない…。「勝敗」や「競技性」は「第二次性」であろう…と夢想しています…というお話です(^_^;。

実はこれは伏線で、「人は何のために何々をするのか」ということを考えるときに出てくること、つまり、何かを行う際の「動機」、あるいはそれと関わる「報酬 reward」を考えるための準備でした。つまり、「踊る」ことは、「そのことをすること自体が<楽しい>という報酬そのもの」であり、勝敗とか競技性とかはさしあたり無用だ、ということなのです。

したがって、それがたまたま何からのスポーツであっても、そのことをすること自体が楽しくて「している」とき、そこには競技性も勝敗もありません。うまくなっていくとか、強くなっていくとかの目的はなく、ひたすらボールと戯れたりしているときには、「人はそのことをすること自体が<楽しいから>する」のです。

話はバレーやモダンダンスなどのようにスポーツ的な要素が強いダンスでも同じです。踊る人が、その踊ることの中で「<楽しい>から踊る」という「報酬 reward」を得ていれば、特に勝ち負けやらは必要ないわけです。つまり、「踊る」ということの本質は、

本人にとって、そのとき「踊る」ということ自体に意味があるとき、それは「踊り」ということなのです。

ここで、踊りを定義するのに「踊る」ということを持ち出してしまいました。スミマセン。本当は「跳んだりはねたりして動き回ること」などと書くべきですが、ここで遅まきながら「踊ること」と「動くこと」の違いを考えておきましょう。

「動くこと」という表現は、身体面での出来事・現れをとらえただけの表現になっています。実際には、何か意味があって人は動く…わけです。多くの場合。
しかし、「動くこと」そのものを楽しんでいるとき、そこには、身体面での出来事と同時に、例えば、そのことを「楽しみ・味わっている」といった「内面的な」状況も伴っているわけです。
つまり、「踊ること」は、「動くことを楽しみ・味わっている」ことであり、「楽しみ味わいながら、動いていること」といったように、身体面での出来事と、内面的・心理的な状態との結合によって定義される、ということなのです。

このあたりの説明は、どこかで正確にして書くことにして、さしあたり、全体を簡単にまとめておきましょう。

  • 「踊ること」は、「動くことを楽しみ味わっている」ないし「楽しみ味わいながら動いていること」である。

  • スポーツやスポーツ的なダンスでは、他者との比較や、「以前の自分との比較」などのように、「比較」ということがつきまとうこと。

  • そのような「比較」とは、「勝敗」や「競技性」ということである。

  • スポーツには勝敗や競技性などの比較・対象化がつきまとうが、「ダンス・踊り」にとって、それは本質的なことではないこと。

  • ダンス・踊りでは、そのように「踊ること」それ自体に意味があること。

*無断転載禁止   2/1,2002 (C)葛西俊治