13.「自己表現・自己確認としての暴力」を超えるために
このテーマは、パット・グラニーカンパニーによるプリズン・プロジェクトの話を聞いている中から出てきたものでした。
1998年、パットの活動に参加するために私が刑務所を訪れた際、受刑者に対するワークショップの一番最初の内容は「作文…」でした。「…どうして作文なのかなあ」と正直思ったものでした。
「希望 hope…」などの言葉をテーマとして与えられて、受刑者の人達は渡された紙に黙々と文字を連ねて作文をしていくのです。
書き終えた人で、読み上げたい人は(スタッフの人に促されて、少し気恥ずかしそうに)、30-40人いる参加者を前にして読み上げたりしていました。
その内容がまとめられて小冊子(英文)になっています。
一人当たり10行程度の長さですが、かなり胸にささります…。
近々、その一部を紹介する予定ですが、
入手したい方はパットさんのサイトで問い合わせて下さい。→Pat Graney Company
「なぜ、ダンスとか作文とか絵画とかをするんですか」ということについて、パットによる解説をまとめてみると、おおよそ次のような内容になると思います。
- 受刑者の人の多くが貧しくて教育もあまり受けておらず、それまで何かを達成したという体験をしたことが少ない。
- ましてや、さまざまなアートやアーティストと関わるという体験が少ない。
- 自己表現・自己確認をする方法として、反抗とか暴力とか放火とか…などがあった…。
- 文字を書いて文章を綴ることで「自分を表現できる」ことに初めて出会う人もいる。
- ダンスや絵画によって「自分を表現できる」ことを初めて発見する人もいる。
- アートを通じたやりとりの中で、暴力的でも抑圧的でもない関わりや関係を体験している。
- 三ヶ月後、一般の人を交えた観客の前で披露される「発表会」が大きな達成体験となる人が多い。
(ビデオでは、発表会終了後に涙を流している受刑者の方も多くいました)*プリズン・プロジェクトに記載されている情報によれば、1992年の全米刑務所協会の報告では、「女子受刑者の50%が24歳から34歳/ 64%がアフリカ系、アジア系、アラスカ系、太平洋島人系アメリカ人などの非白人/ 半数以上が刑に服する以前に性的身体的虐待を受けた経験があること/ 貧困により十分な教育を受けられない環境- 41%が高等学校教育以下/」となっている。
私が一番ショックだったのは「自己表現としての暴力」ということ、「自己確認としての暴力」という指摘でした。いろいろとつらいことや苦しいことがあるとき、それをどうやって超えていくのか…。これは誰にとっても切実なことですが、そのための手段として「殴る蹴るの暴力」「…放火」ということがあったということ―。
ショックで少し腰が抜けそうになりました。でも、確かにそうかもしれない…と、日本での一つの事件を思い浮かべていました。数年前、長距離バスをバスジャックした若者が、そのバスに乗り合わせていた中年の女性に斬りつけて出血多量で死亡させてしまった事件…。バスジャックと殺人の犯行理由が、確か「<自分>ということを確かめるため…」といったようなことだったはずです。
この事件については、アメリカでのことと質的に違うところもあると思いますが、「自己表現」「自己確認」の手段、それも、反社会的だったり破壊的だったりしない方向での手段、それを持っているかいないか―ということの切実さを感じました。
アメリカの女子刑務所、鋭い眼差しで見つめている受刑者の前で私は必死に舞踏を踊りました。そのときの彼女らの熱い反応の理由が、ここに来てようやく、少し分かった気がしたのです。たぶん、彼女たちはアートとしての舞踏に感動した…といった抽象的なことではなくて、そういう表現手段があったのか!という驚きと、そういう表出の仕方で自分自身をそのままに生きてその手ごたえをつかみ取るということがあったのか!
そういうような「感動」だったのではないでしょうか…。このあたりは、「暗黒舞踏」という場に身を置いている私の手前味噌もあるかもしれませんが、いずれにしても、森下スタジオでのパットさんによる解説は、「表現の方法、自己確認の方法としてのアート」のもつ切実な意味合いが明らかになった貴重な機会となったのでした。
ダンスセラピーというアプローチの中には、身体というチャンネルを通じて、夢よりも深く現実よりもリアルな体験をすることがあります。その中で、穏やかに・悲しく・強く・優しく・怒りをこめて・ほのぼのと自分を表出し、自分自身が「在る」という強烈な手ごたえを得る体験をしてきました。私は、そこにダンスセラピーということの一つの特徴があると思っております。
